
発達障害とそうではない定型的とされる発達の間に、果たして線引きはできるのだろうか。医学的な診断基準は存在するものの、例えば糖尿病を診断するときの血糖値のような数値的な境界線はない。もし線引きがあるとすれば、それは本人が日常生活の中で困っているかどうかであり、障害は個人の内面にではなく、むしろ社会の枠組みに立ち現れるものだと考えられる。
私がこのような視点に至ったのは、タイに来てからの経験が大きい。日本社会は特に、画一的な価値観や行動規範にまとまりやすい傾向にある。学校や職場では「みんなと同じであること」が安心につながり、逸脱は異常とみなされる。社会が障害というラベルを強化しているともいえるだろう。一方、タイの子どもたちやその家庭を見ていると、かなりの違いでも「個性」と受け止められ、「普通」の幅の広さ、線引きの緩やかさを感じられる。文化の違いが、障害の捉え方にまで影響をあたえていることを実感する。

私たちの日常を振り返ってみると、職場での振る舞い、家庭での役割、友人や同僚との会話、誰もが自分は普通で正しいと思っているが、突き詰めてみると、実はちょっと違和感があったり、うまくいかなかったり、困っていることがあるのではないだろうか。そんな時、自分の思考や行動が相手の立場や社会の基準に照らして正常なのかを自問する人はまずいないと思う。だが、果たしてあなたが本当に正常なのかどうかは、本人が知るところではないのである。
こう書いている私自身も例外ではない。どうやら多感で少々面倒くさい、最近よく耳にするHSP(HighlySensitivePerson)であったようだ。そのような偏った人格を、周囲がおそらく違和感を持ちながらも受容してくれ、異常とレッテルを貼らずにいてくれたことで今の自分がある。同じように、発達障害と診断された人が困らないような社会の枠組みが用意されることを願わずにはいられない。結局のところ、発達障害は病気でなく、したがって治すべきものでもない。人間の違いを単純化する境界線を引くのではなく、互いの個性を認め合い、ともに活かされるための工夫を重ねることが社会を豊かにする道なのだ。
大阪の高槻病院で長年小児・新生児医療の第一人者として臨床・研究・教育に携わる。サミティベート病院では医療相談やセミナーで邦人社会をサポート。現在は出張ベースで相談やセミナーを継続中。齢50にして長年の不摂生を猛反省、健康的生活に目覚めるも、しばしばリバウンドや激しすぎる運動で体を壊しがち。