アスリートの人生には、その華々しい功績の陰に隠れたいくつかのドラマがある。勝敗や記録といった結果と常に向き合い、それらを導き出すためには何かを手放さなければならないこともある。時には苦渋の決断を強いられることだってあるだろう。
石井正忠さんといえば、Jリーグの鹿島アントラーズの黄金時代を築いたメンバーの一人。選手やコーチ、監督としても実績を積み重ねてきた。ところが石井さんは、ある時を境にしてサッカーと距離を置くことになった。「確かに結果を出してはいたのですが、もう精神的にかなり疲弊していました」。
遠征などで家を空けることが多かった石井さんは、家族と過ごす時間がないことに心をすり減らしていた。そして、考え抜いた末に、サッカーから離れて学校給食センターの厨房で働くことを決意。当時小学生だった娘と過ごす時間も増え、週末は地元のサッカーチームで子どもたちにサッカーを教えた。
そんな石井さんに転機が訪れたのは2019年のこと。「タイリーグのサムットプラカーンから監督就任のオファーがあったんです」。しかし、奥様が“まずは日本で監督を続けてほしい”と懇願。「妻の気持ちは痛いほどわかるので一度は断念しました」。
ところが、タイのことやタイリーグのことを調べ上げた奥様が、“これなら行くべき!”と一転。タイへ行く許可が下りたのだった。
そして2020年、石井さんは晴れてタイリーグのサムットプラカーンの監督に就任。その後、タイリーグの王者であるブリラム・ユナイテッドの監督となり、就任1年目で同チームを3季ぶりの優勝に導いたのだ。
さらに石井さんの人生は動いた。2023年11月になんとタイ代表の監督に就任。「最後のチャンスだと思っていたブリラムで結果を出せたおかげ。“最後”の次に、より責任ある仕事が天から降ってきたんです」。2024年1月に開催されたアジア・カップでは決勝トーナメント入りを果たした。
石井さんは指導者として、タイ人選手のフィジカル管理にも力を入れている。「タイではまだプロのアスリートのフィジカル・マネージメントのノウハウが整っていないんです。でも、これは逆に伸びしろがあるということ。タイ人は運動能力のポテンシャルが高いのでこれからが楽しみです」。
石井さんは今、代表チームの選手たちに“腸活”を勧めている。「腸は脳とつながっているということもあり、乳酸菌を積極的に摂らせています」。自分自身も、体に良い食事を決まった時間に食べ、朝5時半に起床してランニングするという生活を続けている。「このルーティンを始めて数か月ですが、体内を栄養が廻っている感じがします。体調がいいと頭も冴えますからね」。
石井さんの現在の目標は、直近のアジア・カップ予選を1位で通過すること。再びサッカーに浸れる環境となったタイに身を置き、さらなる高みを目指している。
1967年生まれ。順天堂大学を卒業後、Jリーグ・鹿島アントラーズなどでプレーし、2016年に同クラブの監督に就任。Jリーグ優勝を果たすとともに、クラブワールドカップでは準優勝に。2021年タイのブリラム・ユナイテッドの監督に就任し2年連続でリーグを制覇。その実績が認められ、2023年11月にはタイ代表の監督に正式就任。