日常生活の中では、多くの人がそんな病が自分の身に降りかかるとは思っていないだろう。タイに駐在するオノデラ氏もその一人だった。しかし、非情なる突然のがん宣告。焦りや迷いが交錯する中、タイでの手術と治療を決断したオノデラ氏。果たして彼はどんな選択をし、何を思ったのか。その声に、ぜひ耳を傾けてほしい。
オノデラ氏
56歳。在タイ歴6年。銀行勤務を経て、医療等の衛生材料メーカーに勤務。2023年8月、ステージ3の胃がんが発覚。サミティベート病院での手術を決意。無事に手術が成功し、1年間の抗がん剤治療を終えて2年が経過。現在は日常生活を取り戻し、大好きなゴルフも満喫中。
それは一昨年の8月18日のことでした。いつものように友人たちとゴルフをやり、プレー後は歓談と共にお酒と食事を楽しんでいました。体の異変はその時に起こりました。突然、胃のあたりに激しい痛みが!それは今までに体感したことがない異常な痛み!まるで胃を針で刺されたような激痛で、妙な言い方ですが、“悪意の塊”のような痛みでした。一緒にいた友人たちも「普通じゃない」と感じたと言います。今思えば、それは自分の体が必死に伝えてきた「待ったなし!」のサインだったのです。
最初は「疲れがたまっている」程度に思っていました。でも、それにしては症状が怪しかった。さすがに心配になって病院へ行き、診察を受けました。胃潰瘍の疑いがあるとのことで、早速、胃カメラによる検査となったのです。年に一度の健康診断も受けていましたし、そんなに大事になるとは想像もしていなかった。
しかし、胃カメラでがんの可能性もあるとの指摘を受け、生検検査へ。下されたのは、なんとステージ3の胃がん宣告でした。
まさか自分ががんになるなんて!最初はまったく受け入れられなかった。けれど、目の前に突きつけられた現実は何があっても変わらない──そう悟ったとき、心のどこかでスイッチが入りました。「この突然の出来事こそ私の宿命に違いない…」。それからは、むしろ割り切った気持ちでがんと対峙することを決めたのです。
私がタイに残って病に向き合おうと決めた裏には、「誰にも迷惑をかけられない」という強い思いがありました。だからこそ、心折れることなく一人で当時の状況と向き合えたのかもしれません。
とはいえ、最悪の事態、つまり人生で初めて死を覚悟したのも事実です。家族に対しては遺書のようなものも用意しました。でも、絶対に投げやりにはならず、保険会社にも根気よく連絡を続けて手術と治療の補償を確認。
振り返れば、この時の決断と行動が功を奏したのだと思います。がんが発覚してから、なんと1週間後に手術を受ける自分の準備が整ったのです。
もちろん、日本へ帰って手術するという選択肢もありました。しかし「タイで患った病はタイで治す」と決めていましたし、それを理解してくれた家族や会社にも心からお礼を言いたい気持ちです。特に会社のタイ人スタッフたちの無償の優しさには助けられました。「大丈夫だから私たちに任せておいて!」と励ましてくれるんです。こちらが弱っている時に感じたタイ人の包容力は格別でした。
がん宣告から手術までの1週間は、まさに激動の日々でした。思い返せば“火事場のなんとか”ではないですが、ものすごい活動量でした。でも、あの時の自分の判断は正しかったと確信しています。
常に寄り添っていただいた日本人医師の尾﨑先生にも後押しされました。最も良くないのはメソメソして事を進めないこと。相変わらず死への恐怖はありましたが、「手術が終わったら、また大好きなゴルフができるんだ」と、なるべく楽しいことをイメージして、前日には寿司を食べてから手術に臨んだわけです。
サミティベート病院では「病院やタイ人医師との橋渡し役」として日本人医師・日本人看護師・通訳が連携したコーディネート体制を整えています。尾﨑医師は、消化器がんをはじめとする症例でのタイ人専門医とのカンファレンス参加、日本人入院患者さんの病室訪問や手術前後のフォロー、成人向けの医療相談(要予約/無料)など、多岐にわたる役割を担っています。
そして、胃の全摘手術となり、胃の全てと周囲のリンパ節も併せて切除、さらに食物が腸に流れるようにつなぐ再建術を行なう手術は実に6時間にも及びました。もちろん手術中の記憶はありませんが、執刀してくださった先生にはもちろん、手術室の外でずうっと見守っていてくれた尾﨑先生には心から感謝しています。
手術前に尾﨑先生といろいろなお話しができたこともあり、手術への大きな不安はありませんでした。しかし手術後、ぼんやりと意識が戻った時、まだ夢うつつで「ここはどっちの世界?あの世なの?この世なの?」と思ったのは本当です。しばらくすると自分の腹部に管(棒)が3つも刺さっていることに気づき、「まるで北斗の拳みたいだけど、横にいるナースの姿も見える。ああ、オレは生還したんだ!」と確信しました。
半分は死ぬかも知れないと覚悟を決めてはいましたが、やはり死ぬのは本望ではありません。ですから、「これでゴルフに一歩近づけた!」と、生きていることの喜びを実感したわけです。とにかく診察〜診断〜手術までのプロセスを、日本ではあり得ないスピードで実現できたことが何よりでしたね。
手術後は、約1か月の入院となりました。体重が20kgも落ち、当然体力もありませんでしたが、入院中はリハビリなどやることもいっぱい。とにかく1日でも早く仕事に復帰したかったので、真面目に治療とリハビリにいそしみました。入院中、最もつらかったのが食事でした。
早く退院するにはきちんと食事をして体を戻さなければならないのですが、食べられないんです。スープさえ喉を通らず、吐いてしまう。だから小学生が給食を残す時のように、食べたふりをして捨ててしまおうかと思ったくらいです。「この食事を食べることができないと退院はできませんよ」と担当の医師に言われ、まるで教師にたしなめられる生徒のようにして必死に食べたのを憶えています。
そして晴れて退院する日を迎えました。帰宅し、朝、自宅の窓を開けると燦燦と朝の光が差し込み、戸外の暖かな空気が流れ込んでくる。月並みですけど、それらを再び体感できたことに感謝しました。「これからオレの第二の人生が始まる」。その感激は想像以上でしたね。
退院と同時に仕事も再開。最初は在宅勤務から始め、その後はしばらく午前中のみの出勤。動いた方が良いと思ったので、あまりクルマは使わずなるべく歩くようにしました。それと並行して1年間に及ぶ抗がん剤治療が始まったのです。
あの抗がん剤の点滴はつらかったなぁ…激しい吐き気や倦怠感との闘いでしたが、なんとか頑張りました。サミティベート病院は住まいから近いこともあり、通いやすいのは助かりました。「早くゴルフを再開するんだ!」という気持ちが支えになったのは確かです。ゴルフ様様ですね。
食事も最初は蕎麦のような喉の通りがいいものしか体が受け付けませんでしたが、後半は大好きなとんかつも食べられるようになっていきました。
私の場合、大好きなモノへの執着こそがモチベーションでした。ゴルフは退院して1か月後に再開。抗がん剤治療をしている途中なのに始めちゃった(笑)。そして治療を終える頃には、お酒もたしなむ程度に復活。本来の自分に少しずつ戻っていくのを実感しました。
一度、死の淵に立った人間は、きっと死生観が変わるのだと思います。生きていることへの感謝や家族の存在。それらを改めて意識したとき、もっと自分の人生を楽しまなきゃ、と気づくのです。そんなわけでイギリスのリバプールまで海を越え、大好きなビートルズの出生地を訪ねたりもしました。
現在、手術をしてから2年が経過。がんが完治するには4年かかるといわれているので、残りの2年、しっかりと向き合っていくつもりです。今、こうしてゴルフを満喫し、とんかつも週イチで堪能しています。これからも一日一日を噛みしめながら、前向きに人生を積み重ねていきたいですね。
オノデラ様のがん闘病を振り返ると、早い行動と決断、タイ人医師への全幅の信頼、そして並外れた“患者力”が見事に噛み合っていたと感じます。ご本人の強い意志はもちろん、ご家族、とりわけ奥さまの「タイで発見した病はタイで治す」という揺るぎない考えが、治療の流れを大きく後押ししました。また、ご自身で保険会社と粘り強く連絡を取り、治療費の見通しを立てたことも重要な要素です。
中でも印象的だったのは、自覚症状である痛みを“幸運”と捉え、迅速に検査・治療へと進まれたことでした。がんは多くの場合、無症状のまま進行します。だからこそ、痛みをきっかけに治療へ進めたのは極めて貴重な機会だったといえるでしょう。そして何より、「絶対に治してゴルフができる身体に戻る」という強い希望が、治療そのものを支える力となりました。
医療は、患者の意志と出会うことで真価を発揮します。まさにオノデラ様の歩みはそのことを体現した例だと思います。同じ治療を受けるとしても、治療や投薬の内容をしっかり理解し、納得したうえで臨むのと、そうでない場合とでは、治療への取り組み方やその意味合いが大きく異なります。
その点でオノデラ様は、治療内容や投薬について十分に理解し、納得した上で治療に臨まれました。それが、手術や術後の抗がん剤治療を乗り越える大きな力になったと感じています。