
東京で仕事をしていた頃、事務所の社長と二人でよく昼食を食べました。男二人。しかも年齢の差が20歳近くあるので、そんなに会話は多くありません。「たまにはゴルフやってるの?」とか「健康診断、ちゃんと受けときなさいよ」などと、なんだか親子みたいな話をぼそぼそと交わすだけ。それでも僕はこの「昼のひと時」がなんとなく好きで、それなりに大切にしていました。
ある日、いつものように二人でランチに出たのですが、こんなことがありました。オフィスがあるのは銀座線の外苑前駅の裏手で、原宿や千駄ヶ谷へ抜けられる小路が多いエリア。小春日和の心地いい日で、昼食時のピークということもあって、お目当ての定食屋は満席で入れませんでした。「じゃあ、あっちに行ってみようか」と移動するのですが、「あっち」でそれがどこかわかるのが我ながらちょっと凄い。ところがその店も満席で20分待ちとのこと。僕が「待ちます?」と聞くと、「いや、他に行こう」ということで、僕たちは再び歩き始めました。
外苑西通りには、気の利いた感じのレストランがけっこうあるのは周知のとおり。僕は内心「どこでもいいから、サクッと飯を済ませちゃいましょう」と思っていたのですが、社長はあきらめない。オフィスを出てから、そろそろ小一時間が経とうとしていました。すると、「ここにするか」と彼が一言。藍染の暖簾をくぐって入ったのは天ぷら屋で、天ぷらを揚げるいい匂いがしていました。昼の定食をオーダーしながら、社長がポツンと言ったのが「歳をとったらさ、ちゃんとした食事をしなきゃ、あなたもだよ」。そして、番茶が入った湯のみをすすりながら、「一食を無駄にしたくないんだよね。一生のうちに食事ができる回数なんて決まってるんだからさ」と。今でもランチに何を食べようかと迷うと、ふとこの日のことを思い出すことがあります。一食を無駄にしたくない。僕も、その言葉がようやくわかる年齢になりました。
文・吉田一紀