
今からおよそ2年前、2024年のこと。AIはずいぶん賢くなったが、身体性を持たないために、現実世界で起こることを直感的に理解できないと言われていた。
例えば、「高さ8cmの綿菓子と高さ7cmのレンガがあります。綿菓子の上にレンガを置くと高さはいくつになりますか。」と質問すると、8足す7で15cmと返答してくるのだ。人間であれば、綿菓子は潰れるから15cmにならないことは直感として理解している。
その後AIは計算資源と電力を使って、物理法則による世界のなりたち(世界モデル)も学習し、今では正しい答えを返すようになった。
そしてAIに遅れること2年、この世界モデルを絶賛学習中なのが、我が家の娘である。彼女はもともとプラスチック製のコップで水を飲んでいたのだが、最近は大人が使うガラスのコップに興味を持って、それで水を飲みたいと言ってきかない。
どうしても父ちゃんのコップを使いたいようなので渡してみるが、これはガラスだから落とすと割れるよ、もし投げたりしたら粉々に割れて足に刺さって危ないよと言って聞かせてみる。本人はうんうんと点頭して聞いているが、絶対に分かっていないだろうと思われる。なぜなら娘はまだガラスが割れるところを現実世界で見てもいないし、体験してもいないからだ。
であるならば、いつになったらガラスは割れる、割れると危ないということを理解するのだろうか。ガラスが割れる映像を見たときだろうか、それとも実際に自分で割ったときだろうか。もしそうだとして、1回で理解するのか、それとも2、3回経験する必要があるのか。

AIはデータから学んでいくが、子どもは挑戦と失敗を繰り返して学んでいかなければならない。これから数年で急速にいろんなことを学んでいくのだろうが、それに付随して、育児をする側の労力も膨大であろうと推察される。現に僕は今コップを持った娘を見守り、時々コップに手を添えたりして落とさないか、投げ出さないかとヒヤヒヤしている。
AIと育児は効率化の観点で両極端に位置しているものだ。シャワーのあと服を着ない子どもを追いかけたり、ご飯を食べるといって用意をしたらパンにすると言われたり。育児の中にはコスパやタイパという概念からかけ離れた非効率が盛りだくさんなわけであるが、そういうところにこそ愛すべき貴重な瞬間が宿っているのかもしれない。
救急専門医。聖路加国際病院救急部で勤務。2025年4月から妻のタイ駐在に帯同。趣味はテニス、三味線。